2012年5月30日水曜日

夜明けの道記念碑


榎ヶ峠から少し歩くと大きな石に”「夜明けの道 村上恒夫”とにほられた、「夜明けの道の記念碑」に出会う。場所は愛媛県大洲市河辺町の国木です。村上恒夫先生は、坂本龍馬脱藩の道を解明され、「坂本龍馬脱藩の道を探る」と「歩いてみよう坂本龍馬脱藩の道」が出版された方です。

近代日本の夜明けに高遠な志をいだいて奔走しながら凶刃に倒れた坂本龍馬が土佐藩を脱藩した折に通った道が古文書「関雄之助口供之事」によれば「小屋村ヨリ榎ヶ峠ー横通りー封事ヶ峠ー三杯谷ー日除ー水ヶ峠ヲ経テ泉ヶ峠二至ル龍馬俊平ト共二泊レリ」とここ河辺村に約十五キロメートルあるこの道を私たちは文化的遺産として大切に保存することを誓い幕末風雲の中をおびただしい夢を残して懸命に駆け抜けた男坂本龍馬の偉業をしのびここに記念碑を建立する
平成元年十一月十五日
河辺村長 大野富士男



2012年5月27日日曜日

竜馬の通りし道


坂本龍馬脱藩の道の榎ヶ峠に、「坂本竜馬の通りし道 俳優 武田鉄矢」の石碑がある。場所は、愛媛県大洲市河辺町です。今年9月23日に開催されるウォーキングイベント「第24回わらじで歩こう坂本龍馬脱藩の道」の前夜祭(9/22)で海援隊トーク&ライブが河辺中学校体育館で行われます。





2012年5月24日木曜日

男水

龍馬が飲んだと言い伝えられる白滝の水

文久二年(1862年)三月二十四日、土佐の郷士・坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや決然として、土佐脱藩を決意した。(龍馬誌より)

二十五日、高知県梼原村に泊まり、二十六日未明雲悔に浮び上る韮ヶ峠に立ち脱藩の第一歩を踏み出したのである。人通りの少ない時刻にここまで駆け降りこの清水でのどの渇きをうるおした。その時ふと脳裏によぎるものは、捨てた家族ふる里の事等、万感の思いが去来し胸中はいかばかりであったろう。

大志を前に、さまざまな思いを断ちきり、りん然と立つ龍馬の姿がそこにあった。再び韮ヶ峠へと維新の道はつづくのである。正に男の中の男、風雲児、快男子と呼ぶにふさわしい人物であった。

目的は変われども、この意気、度胸、信念を受け継ぎたい。以来、百二十年経た今でもこの水を男水と呼び地域内外で親しまれている。

この水の水源は向こう山の谷間にあり、四国山脈、カルスト高原から発した水を集め、石灰岩の地下洞穴と思われるところを通り、突然に噴出している男性的な清水である。現場立ち入りは、困難なためここまで引水したものである。

惣川自治振興会 惣川公民館
案内版より




2012年5月22日火曜日

龍馬岩


脱藩関所から少し歩くと「龍馬岩」がある。

本日は、龍馬の道探訪、ご苦労様です。ここでも一息入れて下さい。
脱藩第一歩の韮ヶ峠より龍馬と共に歩く道中はいかがでしょうか。関所跡から大師堂と、ところどころの名所に立たれた時、さぞかし感動を覚えられた事でしょう。

さて、ここの龍馬岩なるものは今迄の名所のように一般に知られていませんした。地元の達人も何気なく通っていましたが、最近龍馬脱藩コースが決定づけられ有志が踏査班を組織して調査の折、班員の一人がそれとなくこの場所まで踏み入り正面を見上げたとたん龍馬の姿が浮び上ったのです。班員はいきなり大声で「龍馬が立っているぞ」と叫んだ。他の班員も龍馬、龍馬と思って歩いているから、その気になるには時間もかからない。一同この地点に立ち異句同音に「ほんとうに龍馬だ」と発した。
この姿は高知の桂浜に建つ龍馬の像に似ているとのことです。

見る人によって全身が龍馬の像に見え、又は顔のようにとの見方があります。皆さんもその気で見て下さい。どんな姿に見えましたか。
では龍馬岩を振り返りつ、名水男水まで、もうすぐ。維新の道を一気に駆けおりて下さい。龍馬と先を競い合い乍ら・・・・

惣川自治振興会  惣川公民館
案内版より





2012年5月18日金曜日

まるごと高知

「龍馬像」と「まっことまっこと よっていきや」の看板が目に入ってきた。知人と会うまでに少し時間があったので、久しぶりに、銀座にある高知県アンテナショップ「まるごと高知」に立ち寄った。高知の特産品がいっぱいあるぜよ。地下1階には、土佐電トラベルの東京営業所があって、「高知の田舎に泊まろう!」のパンフレットを持って帰った。「坂本龍馬脱藩の道」に関係しているいの町と津野町にある農家民宿プランを気に入った。1日1組限定とはええのぉ。




2012年5月17日木曜日

龍馬脱藩関所跡


土佐と伊予の国境・韮ヶ峠を越えて、数分歩くと龍馬脱藩関所跡がある。

時に文久2年(1862年)3月26日、龍馬がこの関を逃がれたとされる未明の時刻であった。以後、龍馬らしい人物を見た者はいない。33年と云う短い生涯を閉じたのであるが、何とはかない人だったのか。いたるところに立ちふさがる難関を通りぬける男を支えたものは、もちろん同志の力と天の声をきき、一命を賭けた信念と炎のような身体であった。正に火の玉そのものであったにちがいない。ここの関所を逃がれ龍馬は維新の道をまっしぐらに進むことになるのだが、今は石組だけが残る史跡です。この石の上に立ち住時を偲ぶ時、袴のすそがちぎれた龍馬が今の時代に何を語りかけてくるのか皆さんもとくと聞いてやってください。
脱藩関所跡の案内版より





2012年5月14日月曜日

坂本龍馬脱藩の地


幕末の英雄・坂本龍馬は、沢村惣之丞とともに、文久2年(1862年)3月24日高知を出発し、25日に梼原に到着。その夜、梼原の勤王の志士「那須俊平・信吾父子」の家に泊まり、翌26日未明、俊平・信吾父子の道案内により、宮野々番所を抜け、四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて、予土境・韮ヶ峠を越えて伊予の国に脱藩しました。
韮ヶ峠の案内版「韮ヶ峠脱藩志士」より

坂本龍馬脱藩の地、韮ヶ峠

土佐と伊予の国境

国境にある石碑

道路に描かれている

韮ヶ峠の案内版

2012年5月11日金曜日

梼原の茶堂


梼原町指定文化財・茶堂
藩政時代からあり、現在町内に13棟保存されている。建物は、2間(3.6m)位の木造平屋建、カヤぶき屋根、板敷きの素朴な形式である。木像、石像等を安置して諸仏を祀り、津野氏の霊を慰め、行路の人々に、茶菓の接待を地区民が輪番で行い、信仰と心情と社交の場として、うるわしい役割を果たしてきた。現在も行っている所もある。 案内版より




2012年5月9日水曜日

脱藩前夜に和歌

坂本龍馬が脱藩前夜に和歌を詠む

文久二年三月龍馬らが那須邸で一泊した。信吾は同志を招き龍馬らと倒幕の談義を重ねあい意気投合して酒杯を交わし和歌を詠みあった。

春くれて 五月まつまの ほととぎす
初音をしのべ 深山津野里
龍馬詠

信吾は龍馬らと一緒に西の長州へ脱藩したかったが、国の為に是非にといわれ東の刺客となる。

西と東に引き分けられて
合わにゃ分からんふすまの絵
信吾詠

龍馬、惣之丞らが宿泊し倒幕談義をした那須邸跡こそが、日本の夜明けの発祥の地である。
平成二十二年十一月 梼原町教育委員会・梼原町史談会

那須俊平・信吾屋敷跡の案内版より





2012年5月8日火曜日

坂本龍馬飛騰の地

 文久2年(1862年)3月24日、龍馬はこの地より運命の旅立ちをした。脱藩という、罪が係累にまで及ぶ恐れのある大罰を犯してまで龍馬を駆り立てたものは何だろうか。
 乙女姉さんから与えられたと伝えられる銘刀、肥前忠廣を腰に、たとえ野末でのたれ死のうとも信念を貫き通す覚悟で、この祖霊の地に立った。
 ただでさえ江戸時代の旅立ちは死の覚悟が必要だった。ましてや時代に回天の大技を仕掛けようという龍馬にとって、自分の生き死になどは運命の本流に放りなげて平気だった。
 おりから弥生の桜が七分咲きの、坂本家所領の小高い水谷山を黙然と登る龍馬の背にはひょうたんあった。
 丘の上の祠には坂本家の祖先である明智左馬助の霊と伊予宇和島城下に本社のある、われい明神を合わせ奉ってある。祠の中で祖霊と心ゆくまで語り、酒を呑んだ龍馬はまさにこの地で飛龍となった。
神田龍馬会
和霊神社の鳥居の近くにある案内版より




2012年5月6日日曜日

坂本龍馬誕生地


坂本龍馬(1835~1867) 郷士坂本八平の次男、実名直柔 天保6年11月15日出生 江戸に出て千葉定吉に師事 北辰一刀流の目録を受ける 時勢に感じ武市瑞山の土佐勤王党に加盟 文久2年3月24日脱藩 勝海舟門下生となり 神戸海軍塾の塾頭を務める その他長崎に海援隊を組織し中岡慎太郎とともに薩長連合を実現 後藤象二郎と協力し大政奉還運動を推進し目的を達する 彼の政治改革案「船中八策」は新日本の行く手を示す基案となった 慶応3年11月15日京都の宿舎近江屋で反対勢力の襲撃にあい同志中岡慎太郎とともに斬られる 33才  坂本龍馬誕生地の石碑より





ここが「坂本龍馬脱藩の道」のスタート地点である。

2012年5月4日金曜日

勤王六志士


嘉永6年(1853)の黒船来航に始まる大きな時代のうねりは梼原にも多大な影響を及ぼした。文久2年(1862)春、坂本龍馬は盟友・澤村惣之丞とともに梼原から那須俊平・信吾父子の案内で脱藩する。吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助も、国境を越え維新の動乱の渦中に身を投じた。掛橋和泉は、これらの志士を、身を賭して支えた。維新を夢見て決起し、土佐勤王党、天誅組、中勇隊に参画した梼原出身の6人の志士たちは、近代国家の誕生を見ることなく壮絶な最期を遂げる。「龍馬伝」幕末志士社中の幕末の志士ゆかりの地紹介コ―ナの展示物より


2012年5月3日木曜日

龍馬のピストル


坂本龍馬のピストル(模型)「スミス&ウエッソン第2型アーミー」32口径6連式。龍馬はこれを持っていたのか。高杉晋作から上海のみやげとしてもらったそうじゃ。こうち旅広場の「龍馬伝」幕末志士社中のメモリアル「龍馬伝」コーナーで展示されていました。


2012年5月2日水曜日

龍馬のブーツ


「龍馬伝」のドラマ内で使用されたブーツは、福山さんの意見も取り入れられ何度も試作品がつくられたそうです。脱いだり履いたりする芝居があってもいいように。こうち旅広場の「龍馬伝」幕末志士社中のメモリアル「龍馬伝」コーナーで展示されていました。


2012年5月1日火曜日

珊瑚の龍馬像

この龍馬像は、宝石さんごでできています。2年前、Yahoo Japanのトップページにも掲載されて話題になったのぉ。高知観光情報発信館「とさてらす」(JR高知駅南口すぐ)で見ることができるぜよ!